今日のBBCニュースによれば、遠隔会議もいま以上にリアルにできる時代が、もうすぐ来る。たとえば、あなたがニューヨークにおり、私が東京にいたとする。 今なら、テレビ会議とか、スカイプとかで、お互いをカメラを通してみて、音声で会話する。せいぜいその程度しかできない。 ところが、このBeamingという技術は、さらにその上を行く。 アンドロイドのような、アバターのような、ロボットを通して、私はあなたと会議ができるのだ。 あなたの部屋に、私のアバター・ロボットを置く。東京の私の目、口、体の動きをそっくりそのまま、アバターがニューヨークのあなたの部屋で再現する。つまり、あなたから見れば、まるで私と向き合って会議をしているのとほぼ同じになる。握手したりできる。 ということは、たとえば、福島原発のように、人が生身で行けば死ぬようなところにも、アバターを送り込み、人間同様の作業をしてもらえる日が遠からず来るということだ。逆に悪用すれば、アバターに、自爆テロさせることもできるということになる。 これはすごいブレイク・スルーだ。 ロボットに強い日本より、イギリスが先にアバターロボットを作っているのが、悔しいが、人類には朗報であり悪夢である。 # by akubiagain | 2012-05-12 06:44
小沢判決を控訴すると指定弁護士は決めた。私の予想は外れた。 予想は外れてもかまわないが、 指定弁護士が検察官以上に検察官風になっているのが、愚かで哀れだ。 勝つか負けるか、それが問題だと言わんばかりに、事実誤認があるなどと言い張るのは、小沢問題に特化した話であって、そこで意地をはることの社会的利益はなにもない。負けて悔しいというだけの、くだらない意地や口実に過ぎない。法律的に無益な控訴というのは、法曹界のほぼ一致した評価だ。 私が、指定弁護士が愚かで哀れだというのは、もっと大きな問題に目をやっていないからだ。 検察審査会の二度の起訴相当議決で、それも全く責任を取らなくていよい市民連中が、たくらんだ検察の違法証拠を含んだ証拠にもとづいて、無罪推定をうけるはずの市民を起訴できるという、空恐ろしい制度とその誤った運用があり、それに指定弁護士が乗っかって検察官役をしているという大きな構造そのものの問題性である。 指定弁護士は、もともと検察官ではなく、検察官役をやらされているだけなのだから、いつでも、本来の自分に戻っても、失うものはない。そこが本職の検察官と違う。 だから、もっと客観的に、この訴訟が乗っかっている全体の違法な構造にも目をくばり、無理筋の控訴をせず、公訴そのものを放棄し、無罪判決を確定させるべきだ。そして、さっさと「指定弁護士」などという窮屈な地位を捨て、元の弁護士に戻り、公益のために働くべきだ。それは、違法な制度と制度運用全体を断罪する、違法な行為をした検察官を裁く、国民全体のための公益的告発者として、世のため人のために、そして制度改革のために、働くという役割だ。これをやってほしい。 今の検察審査会二度議決起訴の制度も、今のとんでもない検察の違法な行為を前提にした小沢訴訟も、動かし続けるほどに、被告人への人権侵害が深まる。こういうものは、即刻やめるべきだ。 # by akubiagain | 2012-05-11 05:47
小沢一郎無罪判決を読んだ。事細かな事実を丹念に認定した、御苦労な判決ではあるが、小心で姑息な判決だ。 つまらなさは2つある。 1)全体の論理の持っていき方が姑息だ。 マスコミとか、反小沢の代議士たちは、「限りなくクロに近いシロ判決」とか言っていたが、これはこの判決を苦心して書いた、3人の裁判官たちの真意をつかんでいない。シロは、シロなのだ。 東京地裁のこの裁きの真意は、かりに100%指定弁護士(検察官役)の言い分を認めたとしても、それでも有罪にできないだけの「合理的な疑い」が残るから、もうこの訴訟はやっても無駄よ、やめなさい、ということである。 だが、姑息だ。つまり、「検察官寄りの見方をしたとしても、やっぱり駄目」という論理の持っていき方そのものが、被告人は推定無罪だという刑事訴訟の大原則の精神に反している。むしろ本来は、検察官に立証責任があるのだから、被告人に有利に推定して、これも検察官は十分立証できてない、あれもできてない、と逐一検察官側の立証を批判的にみて、必要とあらば、コナゴナに粉砕してしまうようなやり方のほうが、本筋なのだ。 ただし、それをやると、きっと指定弁護士が、やれ事実認定や証拠評価がおかしいと、また騒ぐ。それがうるさいから、最初から黙らせるには、君たちの言うことに思い切り有利に見たとしても、でもやっぱり合格点(有罪にする域)まで達しません、というほうが、控訴だの騒ぐ労力をカットでき、経済的である。ひるがえって被告人も無駄な控訴につき合わなくてよいから経済的である。そういう、訴訟経済計算で、法の本来の精神をゆがめているのが、姑息だというのだ。小心だというのだ。 でもまあ、建前ばかりでは、うまくいかない、この世である。 だから、こういう原理原則を軽視し、現実主義的な利害を重んじて、それもまた正義だとか考えるような、小心者の姑息さには、まあ、目をつぶろう。どうせ、自分を含め、世の中の大部分の人が、原理原則のために果然と戦って死ぬ、などといった英雄的な肝っ玉はもっていないだろう。 2)より重大で、つまらないとこの判決に失望した点は、検察審査会の議決手続に違法がないとした点だ。 検察審査会が起訴相当議決の基礎とした、いろんな証拠や文書の中に、検察官が誘導的に取った石川調書や、嘘の捜査報告書まで入っていた。なのに、そういう内容的に問題がある証拠が混じっていたからといって、検察審査会の起訴議決の手続全体が違法になるわけではない、と判断した点だ。 この部分の法律判断は、検察が不起訴にし、二度の検察審査会で起訴相当とされたので、強制起訴されたというこの事件の訴訟の制度の全体構造に照らすと、極めて疑問だ。 判決文を引用してみると、 ・・・検察官が、公判において証人となる可能性の高い重要な人物に対し、任意性に疑いのある方法で取調べて供述調書を作成し、その取調状況について事実に反する内容の捜査報告書を作成した上で、これらを検察審査会に送付するなどということは、あってはならないことである。 なんじゃ?この論理は?あってはならない、と大威張りに叱り飛ばしつつ、でも、あってはならないものが混じっても、全部ダメとするのは極端だから、・・・と腰ぬけになっていく論理である。 場合によっては、腰ぬけも、それなりに柔軟として評価もできよう。 だが、本件は違う。よく考えてほしい。 検察審査会が非公開で、しかも、証拠の適切さの判断もできない、素人の市民集団が、起訴までできるような権限を発揮し、その権限を間違った考えでやっても誰も何も責任を取らないでいいという空恐ろしいところだからこそ、そしてまた、その会議の秘密性を守るためにも裁判所が立ち入らないのであればこそ、検察官が内容に瑕疵のある証拠をそもそも出してはならないのであって、もしも出したことが発覚した場合は、もう手続全体を無効にするしか、秘密会議を守りつつ、かつ被告人の自由も守る方法はないではないか? なにが「法的根拠に欠ける」だ。大ありである。 違法作成証拠を検察審査会から排除し、かつそういう証拠が出された時は、結果のいかんをとわず手続全体を無効にする法的根拠は、被告人が不当に起訴されないという人身の自由や適正手続の保障、そういう憲法の一連の条文である。 証拠力の判断ができる専門家ならともかく、ど素人が、検察官の出してきた証拠を疑うだけの勇気や能力があるというのか? 現実効果から考えても、もしもこういう生ぬるいことを言っていたら、またしても、「故意に」事実に反する調書をつくって出すという検察官の悪辣な実務が生き残ってしまうではないか。 だが、だが・・・東京地裁は、ここでも姑息で小心な解決を提示した。 判決文は、先の引用部分に続けて言う。 したがって、訴訟手続において、このような事実が判明した場合には、当該捜査報告書あるいは当該供述調書の証拠能力あるいは信用性を否定することによって、被告人とされた者の救済を図るべきであり、その上で、それ以外の証拠に基づいて、起訴された公訴事実について、審理、判断するのが相当である。 要するに、素人が検察に騙されて起訴して、哀れな被告は裁判を受けさせられてもしかたがない、違法な証拠は取り除いて、他の証拠で判断するから、裁判所で耐えなさい、一方、だました検察は、関係者でよく取調べよ、というのである。 だが、素人集団が、秘密裏に審理して、それをだれも後で訂正も反省もさせることができない、そういう検察審査会が起訴の権力をもつ、という制度の文脈を忘れてはならない。東京地裁の判事さんたちは、この大きな文脈を見落として、小手先の腰ぬけ論理を振り回している。 検察官が起訴をしたなら、嘘の証拠等で起訴したその検察官を首にすればよい。 だが、素人集団は、首にできないどころか、1回こっきりの集団だから、責任のセの字すらとらせられない。 つまり完全に特権的ブラックボックスが起訴権限を発動するのだ。 そういうブラックボックスには、絶対に違法証拠をほうりこんではいけない、放り込んだときは、全部手続無効、という風に言わないと、被告人にフェアではない。 しかも、だました検察が、検察の身内で、どこまで「十分、調査等」できるものやら。裁判所としては、そこまでは知らないよ、というのだろうが、裁判所が、そういう不埒な証拠を出したら、木端微塵にそもそも公訴を全部無効にするぞ!と脅さないと、本当は徹底して、検察などは「十分」「対応」しないのである。 分かってはいる。どうせ、もしも、起訴議決手続が無効で、この裁判全体が却下、という判決などすると、検察官役の指定弁護士が、また控訴する。被告人はさらに付き合わなければならず、しかもこの場合、法律論なので、最高裁までいきなり飛躍上告とか、あるいは控訴後に上告とかもありうる。こうすると、被告人はもっと裁判に付き合わされることになり、政治家としては完全に終わる。だから、双方、訴訟の経済からして、ここの法律論はやや曲げてでも、訴訟の中身に入り、そこで、白黒つけたほうが、いいですよ~、というわけだ。 あ~~あ。判事らの、人権意識の希薄さ、小心と姑息さ、ここに極まれりだ。 そういうのが、世の中の正義なのだろうか? こういうのを、justice of convenience(ご都合正義)というのだ。 こんな判決を妥当な大岡裁きなどと言うようなら、この日本は、原理原則が壊死した社会である。 だが、たぶん、検察官役の指定弁護士は控訴しない。近日中に小沢無罪で確定するだろう。そして、世間一般は、それでいいや、と、他のことに目を移すだろう。 かわいそうなのは、市民・小沢一郎である。 (別に小沢氏でなくてもいいのだ。あなた自身がそういう立場に置かれたら、と思ってみる必要がある。) 追記 郷原信郎氏は、私より、おとなしいコメントを出しているが、本来、検察の権限濫用をチェックするはずだった検察審査会が、検察以上に起訴権限を濫用しうる危険がでた、とハッキリ書いている点は、まったく同感である。彼は、立法論でこの問題を片づけよといい、私は、判事がもっと勇気をもって憲法の人権規定にもとづき、二度目の検察審査会に違法証拠を放り込んだ手続の違憲性、違法性を明確に言え、と言っているのである。憲法、推定無罪の原則、そういうのを守るべき公職は、最後は判事だということを忘れないでいただきたい。 # by akubiagain | 2012-04-29 11:21
Let's Noteを愛用していたが、ついにハードディスクが変になり、動かなくなった。で、SSDに入れ替えた。見事、2006年版Let's Noteが現代版に生まれ変わった。 ウィンドウズXPが、サクサク立ち上がる。こりゃ、爽快だわい。 と、思いきや、ありゃ? ある朝、突然、ウィンドウズが立ち上がらなくなった。 なんで?? 落としたわけでもないのに・・・ SSDでも、やっぱりクラッシュするんだ・・・。 昔から、PCには、こういう突然死がつきものだった。 ずいぶん前だが、英語の俳句サイトにこんなのがあった。 Windows NT crashed. (NTがクラッシュ) I am the Blue Screen of Death. (青々と死の画面) No one hears your screams. (君の悲鳴は人には聞こえない) 本歌取り超訳 青画面、あお~いほどの悲鳴かな (梅一輪いちりんほどの暖かさ(服部嵐雪)) - - - - - - - - - - - Yesterday it worked (きのうは動いた)Today it is not working (今日は動かない) Windows is like that. (ウィンドウズはそんなもの) 本歌取り超訳 朝(あした)にはウィンドウズありて夕べには白骨となれるソフトなり。 (朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり (蓮如、御文章)) - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - てなわけで、私もパロディ的自作をひとつ。 クラッシュと目にはさやかに見えねども ディスクの音にぞおどろかれぬる (あくび) 本歌:秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる (藤原敏行) # by akubiagain | 2012-03-28 00:31
時代も変われば、歌詞も変わるのだ。(本歌はこちら)終着駅(1971) 執着疫(2012) 歌 奥村チヨ 歌 akubiagain 落葉の舞い散る 停車場は 花粉の舞い散る 停車場は かなしい女の 吹きだまり なみだ目マスクの 吹きだまり だから きょうも一人 あすも一人 だから きょうもくしゃみ あすもくしゃみ 涙を捨てに来る 涙があふれ出る 真冬に裸足(はだし)は 冷たかろ 春先花見は めでたかろ 大きな荷物は 重たかろ 宴会車座 たのしかろ なのに きょうも一人 あすも一人 なのに きょうもくしゃみ あすもくしゃみ 過去から逃げてくる 花粉にうなされる 一度離したら 二度とつかめない 一度かかったら 二度となおらない 愛という名の 暖かい 心の鍵は 花粉その名も 新しい 公害だけは # by akubiagain | 2012-03-25 19:44
どうして、消費者の食品安全性に対する予防・自衛の態度を、「風評」というのだろうか?まず、言葉をはっきりさせておきたいが、風評とは、根拠のない否定的評判・うわさのことで、風評被害とは、「大辞泉」によれば、「根拠のない噂のために受ける被害。特に、事件や事故が発生した際に、不適切な報道がなされたために、本来は無関係であるはずの人々や団体までもが損害を受けること。」とある。 震災以降、とくに福島原発の爆発や汚染水の海洋垂れ流し以降、海産物や農産物は、「風評被害」を受けてきたと、盛んに報道されている。 だが、それは風評なのか?そうではないだろう。 風評の前提は、それが根拠がない噂だと断定できる状態があることだが、いまの日本には、そもそもその前提がない。 1) 政府の食品安全性の「暫定基準値」とやらは、爆発後に大幅に緩和され、それにひっかからないからといって、だれが信用できるだろう? 2) それに、そもそもシステマティックにその「暫定基準値」を超えていないという検査をすべての食品にしているのか?もしあるなら、なぜラベル表示されない? 3)しかも日本のラベル表示は、それが本当に真実を表示しているのかを、だれが厳しく監視、規律しているのだろう?偽装表示が何度も事件になってきたこの国なのに、いまだにラベル表示通りかどうかを抜き打ち検査するなど、きちんと保証する制度は確立していない。信じろとだれが説得されるだろう? そういう消費者の利益を、生産者、流通者がきちんと守る姿勢と制度がない限り、「風評」などと安易に言わないでいただきたい。 消費者は、自分の体や命を守る権利があるのであって、根拠が明確に示されない限り、怪しいと自分で思う食品を買わない自由があるのだ。それは、決して風評ではなく、むしろ自衛であり、予防なのだ。 風評をなくす責任は生産者と流通者にある。まずは生産者の側で、安全性を立証する挙証責任を尽くしていただきたい。そういうのを尽くさないで、「風評」だとか言わないでもらいたい。せめて、産地表示と放射能に関する安全性表示は、魚を含めて、徹底していただきたい。法令で義務付けられていないからしなくていい、などと言っていれば、いつまでも消費者の自衛的予防は続くだろう。それを「風評」といって責める前に、自分らで自主的にできることをやってもらいたい。まともな生産者はちゃんと自主的に検査して、安全であることをアピールしている。魚などは、どの海域でとれ、基準値を超えていないことを、漁協など責任のとれる団体がきちんと表示していただきたい。それに、「生協」などは、率先して、流通業者として尽くせる安全性の自主点検などをして結果を定期的に店舗内やウェブに公表し、消費者の信用を取り戻すように、活動していただきたい。 ちなみに、私は一介の消費者であるが、安全性を表示により確認できない太平洋側の魚、とくに深海・海底の魚、たとえばアンコウやヒラメ・カレイなど、太平洋側の海底魚は、この1年間、いっさい食べていない。セシウムは沈殿するのだ。かつてイギリスで狂牛病が起きた時も、世界中で、産地遡及追跡性(トレーサビリティ)がシステムとして確立するまでは、牛肉をまったく食べなかった。(問題となっていた、配合飼料は日本にも輸出されていたから、日本の牛も疑惑をぬぐえなかった。) 消費者にはそうする自由と権利があるし、そうしたから「風評だ」とか言われる筋合いではない。 この際、アラスカ産の鮭とか、カナダ産のシシャモとか、モーリシャス産のタコとか、がんがん食べるぞ。 安全のためなら、貿易自由化もかまうものか。(なんという皮肉か! 多くの日本人は国内産のほうが安全だと思い込んでいるが、もうそう断定できるだけの根拠はないのだ。) 国内の生産者には、事態の深刻さを、もっと真剣に受け止めていただきたい。 セシウム137の半減期は30年。それくらい続く問題なのだ。 国内の生産者が、消費者の支持を積極的に勝ち取るには、法令の求める以上の安全性の確保やアピールを消費者に見えるようにやるべきだ。もはや「国」が信じられていない日本で、人々の心をつかむにはどうすべきか。それが1年たった生産者・流通業者の今の問題だ。 ちなみに、食品の放射能検査データについて、数少ない消費者に有益なサイトとして、ここがある。 # by akubiagain | 2012-03-18 19:50
熊谷次郎直実(くまがいのじろう・なおざね)と聞けば、ああ、「敦盛の最期」ね、とか、「一谷嫩軍記(いちのたに・ふたば・ぐんき)」ね!とか、 ピンとくる人は、源平合戦フェチか、ディープな歌舞伎ファンである。 たまさかの歌舞伎ファンとしては、聞いたことはあるが見たことがない。だから、一度は見てみたいと思っていたのが、この「一谷嫩軍記」だった。ちょうどいま国立劇場でやっているのをきのう見つけて、本日は、急に観劇と相成った。 この歌舞伎は、熊谷直実の悲しい心を描く。それをえぐるようなメスを、序幕・二幕目の伏線をもとに、いよいよ最後の三幕目に、グリグリと入れていく。 熊谷は、源氏方の北面の武士として内裏を警護していたが、女官・相模と恋仲となり相模は身ごもる。相模が仕えていた藤の局(つぼね)の計らいで、熊谷と相模は夜陰にまぎれて都落ちし、やがて相模は一子・小次郎を生む。他方、同じころ藤の局は、後白河法皇のご落胤を懐胎し、それが生まれて平敦盛となる。 それから16年して、源平の合戦だ。 熊谷のボスは源義経(頼朝の弟)だが、人情にあつい武将のため、法皇のご落胤・平敦盛を殺すわけにはいかぬと考えている。そこで、源義経は、桜の枝を折るやつは処罰するという高札に事寄せて、ひそかに熊谷に、一の谷に陣取っている平家を攻めるとき、敦盛の命は救え、というシークレット・メッセージを出す。それが「一枝(=一子=敦盛)を伐らば、一指(=一子=小次郎)を剪るべし」という高札の文言だった。 このなぞなぞを読み取った熊谷は、わが子小次郎の首を刎ね、それを「敦盛」を打ち取ったと、義経に首実検に差し出す。義経も、あっぱれ、よくやったとしらばくれ、武士の忠義を貫いた熊谷を肯定する。そして当の生きた敦盛が入った、敦盛の「鎧櫃(よろいびつ、よろいケース)」を、平家に味方する爺に預ける。 要するに、熊谷は、恩義と忠義に縛られて、わが子を殺さざるをえなくなった。敦盛の母である藤の局には、相模と自分のスキャンダルを闇に葬ってもらった恩義があった。また、ボス義経との関係では、武士としての忠義があった。いずれからも敦盛を救わねばならなかった。そのために、自分の子をみずから手がけて犠牲にしなければならなかったのだ。 人の親として、耐えがたい悲運を抱えた。だから、世を、武士の身を、はかなみ、恨み、出家して僧となったというわけだ。その熊谷が、最後につくづく言うのである。「16年は一昔、夢だ、・・・・ああ・・・・夢だ」と。 これは、さすがに哀れなせりふである。 これを言ったあと、幕が下りても、花道で、独りよろよろと行きつ戻りつ、憂いを抱えた僧として、果てしなく人の世の悲しみを演じる。 ね~、わかります?このネバネバ感!歌舞伎といえば、木の板を拍子木みたいなので、ビシバシ、ドタバタ叩く効果音とともに、組み討ったり、投げ飛ばしたりする荒事の立ち回りや、大見得を張って、「ヤマト屋!」とか「ナリタ屋!」とか掛け声をもらうようなシーンが有名だが、他方で、一歩進むも涙、二歩下がるも哀れといった、憂愁を何分もかけて、これでもか、これでもか、と、しつこ~~く演じるのも、歌舞伎の真骨頂だ。 熊谷は、最後までネバネバが効いていた。 いやあ、久しぶりに、4時間の非現実空間を存分に楽しめました。 ちなみに、隣の親父は、東蔵か魁春のファンだったようで、しきりに「加賀屋」と叫んでいたよ。 # by akubiagain | 2012-03-10 23:31
卒業試験があまいに重たいので、お口直しに、軍歌を一つ。
![]() 第一次大戦でも第二次大戦でも、ヨーロッパ西部戦線がしばし、膠着状態に陥った。 ドイツと他国のにらみ合い最前線が、いわゆる「ジークフリート線」だった。 1939年、イギリスの軍人がそこで士気を高める軍歌を作った。 これがくそまじめな日本人の悲壮な「同期の桜」とは正反対の、人生を最後まで突き放して笑うイギリス人の、なんとも苦笑いさせられる、ちゃめっけたっぷりの軍歌なのだ。 「ほらジークフリート線に干しましょ、お洗濯 (We're going to hang out the washing on the Siegfried line)」 Mother dear I'm writing you from somewhere in France, おかーさん、フランスのいなかから書いてるよ。 Hoping to find you well, そっちは元気だろうね。 Sergeant says I'm doing fine, a soldier and a pal こっちは立派にやってる同志って軍曹がほめてくれてる。 Here's a song that we don't sing, this'll make you laugh. こんなの歌いはしないけど、かーさん笑うと思うよ。こんなんだ。 We're going to hang out the washing on the Siegfried Line. ほらジークフリート線に干しましょ、お洗濯。 Have you any dirty washing, mother dear? 汚れたのはあるかな、おかーさん? We're gonna hang out the washing on the Siegfried Line それジークフリート線に干そうよ、お洗濯。 'Cause the washing day is here. なんたって、洗濯日和。 Whether the weather may be wet or fine 降ろうが照ろうが We'll just rub along without a care. ザブザブ・ゴシゴシやるだけさ。 We're going to hang out the washing on the Siegfried Line ほれジークフリート線に干そうよ、お洗濯。 If the Siegfried Line's still there ... ジークフリート線がまだあるんなら・・・ 歌はこちら # by akubiagain | 2012-02-05 10:56
ロシアより(無)慈悲をこめて(国連安保理・ふたたびシリア人権侵害即時停止決議を、ロシア・中国の拒否権発動で、採択できず。ロシアはアサド政権転覆を図る決議で内政干渉であると反対の理由。) 人生大学総合学部・卒業試験問題:左の挿絵を論評せよ。 # by akubiagain | 2012-02-05 09:51
たぶん知らなかったのは、私ぐらいなんだろうが、昨夜、モニク・アース(Monique Haas, 1909-1987)というフランスの戦後活躍したピアニストの、ラヴェルの「左手」を聞いて、とても感動した。第一次大戦で右腕を失ったピアニストに依頼されて、左手だけで弾く、ピアノ協奏曲をラヴェルが作った。 そういう因縁を知っているのに、どうしてだろう、このアースの演奏は、実に楽しげに、明るく弾いている。 苦労を微塵もみせない、軽やかな演奏。思わず、時をわすれて、ピアニストとともに、ジェットコースターに乗ったように、最後まで、あっという間に聞いてしまった。 こんなピアニストがいたのか!! なんとも言えない感動があった。 そこでさっそく、アースのドビュッシーとラベルのCDを買い込んで、いま聞いている。この人は、ドビュッシーを挿絵入りのお話しのように弾く。 下手が読めば平板になる詩を、とてもうまい朗読で聞いている感じだ。 音が、風になり、色になり、魚(うお)になり、うねり、飛び跳ね、のたうち回る。かと思えば、やさしいささやきとなり、ため息となり、あわい夢となる。そして、フレージングがとってもフレンチだ。これは、あのパリの、モンパルナスから、緩やかにカルティエ・ラタンへとくだる、春の4月の、ランチタイムの、水仙の香りのような、あの人の、スカーフがひらりと翻る輝きのような、エスプリ。 それにしても、高音も低音も、よくのびる、きれいなピアノの音だ。 # by akubiagain | 2012-02-02 21:22
1月13日にイタリアの沖で座礁沈没し死者まで出した、コスタ・コンコルディアのクルーズ旅行の宣伝が、本来なら、この船のパッケージ宣伝はすぐに撤回し、かつ今回の事故の説明や乗船していた人の安否が確認されたとかの、もっと重要な情報を提供すべきではないのか?手が回らないといった言い訳は、電子情報交信の速度が速いフェイスブックの今日、言い訳にならない。 情報管理の甘さと言い、いい加減な広告態度といい、社会の笑いものだ。 # by akubiagain | 2012-01-16 10:47
書き初めとして、今年は亀を選んだ。で、問題は筆順だ。![]() ![]() これが象形文字の典型であることは、結構知られている。だからこそ、筆順がわからない。 そういうとき重宝しているのが、江守賢治編の『楷行草 筆順・字体字典』(三省堂)だ。 これは、非常に便利で徹底した字典で、著者の完璧主義の性格が紙面全部に横溢する、気迫のこもった名著だ。 常用漢字すべての筆順や字体が載っているばかりか、書くのが難しい漢字の筆順もちゃんと書いてある。 (どうやって調べたの?と逆に聞きたくなるくらい徹底している。) 亀と同様に、意外と筆順が分からないのが、亞とか、卍とか、凹凸とかだ。 こういうのを調べては、へえ、そう書くのか、そうだよな、とか自問自答しているうちに、小一時間たってしまった。 # by akubiagain | 2012-01-05 20:12
常夏のテングサの島。その島の浜辺まで、隣の大きな島からボートで渡る。 船体の両脇に、腕が本体から伸びて、その先に安定棒がついている。ちょうど川の字のように真ん中の本体を左右のわきで二本の安定棒が支える感じで、なかなかおしゃれなデザインの木造船だ。 穏やかな海の小さな波を越えていくと、絵にかいたような美しい風景が広がっていた。 のんびりした、貧しい島。テングサを栽培して収穫し、干して、加工場へ納入するところまでの、典型的な第一次産業の島で、典型的なモノカルチャー経済。島の経済の85%がテングサ業を労働集約的に行っている。それがようやく近ごろ、観光業でも収入を得るようになり、いまはバンガローが次々に建てられている。浜辺に着くと、そういうバンガローの客引きが寄ってきた。 その一人についていくと、浜辺近くの、海の景色がよいところだったのでそこにした。 こうして、しばらく、そこでのんびりした。 夕方、雷鳴がとどろき、スコールが瀑布のように降ってきたが、小一時間でケロリとやんだ。 あとは燃えるような夕日が海の上にあった。
# by akubiagain | 2012-01-03 06:54
![]() 狂言の話のついでに、大昔のログをちょっと復活させてみる。 2004年05月16日(日) 狂言を見た。久しぶりだ。 一番面白かったのは「骨皮」。 檀家を多く抱える寺の住職が隠居し、新発意(しんぼち)に継がせる。ところが、この新発意が世慣れない。 信心のない檀家が来て傘を貸してくれというと、新発意は隠居もまだ使っていない新品を貸してしまう。 使ってもいないのをなぜ信心もない奴に貸すかと隠居にしかられ、断るなら「強風で骨は骨、皮は皮にバラバラになってしまったので、まんなかだけ台所の天井に打ち付けてある」と答えればよいと隠居に入知恵される。 次の脚気になった檀家が歩くのがきついから馬を貸してくれと来ると、「強風で骨は骨、皮は皮に・・」と先の断り文句を使う。檀家は混乱し、それはお気の毒なことと帰る。今度は体よく断ったと隠居に褒められるかと、報告すると、「かさと馬の区別もつかぬか」としかられる。 馬を貸すのを断るときは、「痩せたので、山の青草を食べさせたら、駄狂い(発情)して、谷に落ち、腰を痛めたので、馬屋の隅にコモをかけて、青息吐息だから貸せない」といえばよいといえ、と入知恵。 次の別の檀家が斎(とき)のお経を読んでくれと隠居と新発意を招こうとすると、隠居は「駄狂いして腰を痛めた」からダメだと新発意が断る。檀家はまたまた混乱する。 今度こそ褒められるかと隠居に報告する新発意。ところが、隠居はアホなやっちゃと怒る。俺がいつ駄狂いしたか!と。 あら、それはこないだ、ご隠居が、若い方といちゃいちゃ、、、と、言ってしまう新発意。 ん?あれは袂のほころびを縫ってもらっていたのじゃ。 え?あの声は。。。 なんのなんの!師匠に逆らうか(と新発意を投げ飛ばす) なにを師匠づらして、(と隠居を新発意が投げ飛ばす) やー、勝った勝ったと逃げていく新発意。 投げられた隠居が、「やるまいぞ!やるまいぞ!」と追いかけて、幕。 ははは。 いつの世にもこういうHとアホがおりますな。500年たっても通じるcoolな風刺。 どっちもどっち。目くそ鼻くそを笑う。 pot calling the kettle black(煤だらけの鍋がヤカンを黒いと馬鹿にする、ヤカンからすれば、よく言うよ、おまえも同じだろ!) # by akubiagain | 2011-12-10 00:39
ジョン・海山・ネプチューン(John 海山 Neptune)を久しぶりに聴いた(人物紹介は、記事(1)、記事(2))。"Shakuhachi Mellow Jazz" ジャズのスタンダード曲が、尺八の「いかにも!」と唸らされる、独特の技法を交えて、みごとにジャズのノリで展開される。静かなあしらいの曲が多く、くたびれた夜に最適だ。 # by akubiagain | 2011-12-09 10:29
# by akubiagain | 2011-11-30 19:30
山本東次郎『狂言のすすめ』(玉川大学出版部、1993)は、明快な主張の書だ。これを読むと、狂言をみる目が変わる。お笑いもの、滑稽な人間像を描いたのが狂言だと思うのは皮相で、もっと高次の思想と主張が狂言にあると、狂言師たる著者・東次郎師はいう。その高次の思想と主張は何か。 それは、人一般にありがちな過失・弱み・思い込み・思い上がり・過信・油断・盲点を典型的に代表する人物を狂言の主人公に仕立て上げ、それを笑いものにし、あるいはそれを告発するような筋にして、観客全員それぞれに自分の生活や性格や生き方を顧み内省するようにしむける、そういう普遍的な訴えかけをすること、これが狂言の思想であり、主張だというのだ。 東次郎師の表現では、狂言とは、「呼応する観客の心の中で劇的な成長を遂げるべき性質に作られている演劇」で、「毎日の自分を見つめ、自らの人生を反省して懐疑する謙虚さを備えた人びとの心の中で、はじめて開花する芸」である(81頁)。「舞台上で狂言師が描いている人間は、その人物ひとりの姿ではなく、あらゆる人間の生きざまの象徴として描かなければなりません。そこから、揺れ動いている人間の心理はおおよそ万人共有の心理であり、それをまた万人につなぐ表現とするためには個性的演技であってはならない〔=演技の透明化〕という主張が導かれてくる」(190頁) ![]() 自分はこれまで狂言とえいば、「附子」などの太郎冠者に出し抜かれる間抜けな大名、あるいは「骨皮」などのとぼけた新発意(しんぼち)とかがでてくるものを狂言と思っていた。ところが今年に入って「釣狐」を見て、これは全然笑えないし、それどころか悪趣味でpolitically incorrectにしか見えないので、そんな狂言があることに当惑していたのだ。しかも「釣狐」は、演者にはとても大切な曲とされているときき、さらに不審と不思議が深まった。 しかしこの本を読んで、その不審や不思議は氷解した感じがする。とくに狐や座頭を主人公にした狂言についてだ。これらは残酷で過酷なものが多いが、あえてそういう主人公を通して、狐より人間が偉いと思いこんでいる人間に本当にそうかと問い、また目の不自由な座頭よりも、心の目が閉ざされているのは「健常」なはずの人(=観客のみなさん)のほうではないのか、と問うことこそ、狂言の主張なのだ、と言われると、ああ、そう取ればあの「釣狐」はたしかに面白い、深い狂言で、大切な曲なんだな、と腑に落ちる。 ただ、そういうメタ哲学から一貫して解釈して狂言を演じると、深刻で重くなり過ぎ、もう一方にある狂言の軽妙さの面白みがかなり減るような気もする。その辺のバランスが演者の腕とか品格とか芸位とかになるんだろうか。 # by akubiagain | 2011-11-27 22:56
1981年に第1弾が放送され、延々と2002年まで、数次にわたって、主人公の子役の生育とともにドラマも続いた、あの「北の国から」の台本を全部やっと読み終えた。倉本聰『定本・北の国から』(理論社)だ。 1000ページある。分厚くて重くて、通勤途上や就寝前、読むときかなり腕が疲れたが、何度も泣かされた。 だが、「北の国から」は、本質的には80年代の作品だな、と思う。 そこに出てくる社会問題に関する切り込み方が、 都会(非人間的・効率的・繁栄)←→田舎(人間的・非効率的・貧乏) 大規模・工業的農業(草太兄ちゃん)とバブル←→無農薬農業(中津完治夫婦)、リサイクル、自然の利用(五郎) といった日本国内の経済成長に対するアンチテーゼの構図だからだ。これはもう古い。 2011年の今はグローバルな視点が必要だ。 その視点から、現代の農民を描く「北の国から」をさらに展開すべきではなかろうか。 題して「北の国から2011・津波」 (純の語り) それは突然やってきた。春先、3月11日、東北地方を襲った強烈な地震は、これまで見たこともない猛烈な津波をもたらし、次々と人々の命を、家を、家族を、友達を、仕事を、飲み込み、流し去っていった。何度もくりかえされる、テレビの画像を、食い入るようにみていたぼくは、そのうち耐えられなくなって目をそらした。その傷がいえない、その年の11月11日、第二の津波が、今度はぼくを直撃した。 ![]() テレビで、ドジョウが演説している。 ドジョウ 「我が国の国益を堅持しつつ、TPP交渉にむけて関係国と協議に入ることに、いたしました。」 純「アチャー」 結「TPP、どうなるんだろ?」 純「こっちが聞きたいよ」 (純の語り)お父さん、あなたは畑から出る石で家をつくりました。そういうあなたを、ぼくはいまとても尊敬しています。でも、、でも、、、このTPPは、外国から来る津波です。目に見えない津波です。ぼくは、あなたの教えてくれた、自然に逆らわず、自然とともに生きる道を選ぶとしても、こんな不自然な世界の波には、どう立ち向かえばいいのでしょう?教えてください。お父さん。 テーマ入る。(サダマサシ歌う) ♪らーら~~、らららら、ら~~らら・・・ # by akubiagain | 2011-11-15 22:04
ちょっと元気になったことがある。
ついこの頃、二十歳(はたち)になりたての、青春君たちと話すことがあって、どんな歌が好きなのかという話題になった。 なんと「なごり雪」(1974)なんだと! へえ~。あんな、カビが生えたような、懐メロが好きなの????と、内心思ったが、 だよね~、あれは名曲だよね~、とか釣ってやった。ヒヒヒ。 そしたら、青春君たちが、真面目な顔して聞いてきた。 あの曲の、「なごり雪も降るときを知り」ってどういう意味なんですか、って。 ♪汽車を待つ君の横でぼくは 時計を気にしてる 季節外れの雪がふってる 東京で見る雪はこれが最後ねと さみしそうに君はつぶやく なごり雪も降るときを知り ふざけすぎた季節の後で いま春が来て、君はきれいになった 去年より、ずっときれいになった ♪ で、意地悪なぼくは、逆に質問してやった。 問1 下線部を英訳するとどうなるか。最も適切なものを選べ。 ① The last snow knows when to fall. ② I have realised it is time for the last snow to fall. ③ Just as I know it is nearly spring, the last snow is falling. ④ The last snow is falling just as I expect it to fall. 問2 1970年代前半の歌として、この歌が完全な空想だということは、次のどの点からいえるか。最も適切なものを選べ。 ① その時代の東京に「汽車」があるはずがない。 ② その時代の東京に雪が降るはずがない。 ③ その時代の東京に君がいるはずがない。 ④ 君がきれいになったというのはおせじで、事実ではない。 正解は、 問1 ①と② (一つ選べ、とは言っていないぞ。雪がみずから降るときを知っていた、とも、自分が「ああ、もうそういうときが来たんだ」と悟った、と、どっちとも解釈できる。) 問2 ①(断然、これは東京に汽車がありっこない、が正しい。汽車とは、蒸気機関車に引かれて走る列車のことだ。作詞者の「伊勢正三」の田舎・大分では、1970年代も「汽車」が走っていたが、東京ではすでに消えていた。) てなわけで、まあどうでもいいんだけど、たしかに「なごり雪も降るときを知り」は、曖昧な歌詞だよね、と答えたもんだ。 だが、なんで、こんな、綿あめ(綿菓子)みたいに、ふわふわした、ただ甘くて口にしたとたん溶けてなくなるだけの歌が、青春君たちに受けるんだろう?(いや、だからか・・・) # by akubiagain | 2011-11-11 23:07
無知だった。
前に、マドンナのpapa, don't preachについて書いたが、パパ(お父さん)という字面を追った感想ばかり書いていた。 だが、あの歌は、実は、堕胎を批判するローマ教皇(Pope, Papa)を揶揄する、政治風刺でもあったのではないか、と気づいて、そうなのかな~と、その道の訳知りに聞いてみた。すると、え!知らなかったの? だって。 やっぱり、そうだったのか・・・ パパ(教皇)、お願い お説教はやめて。 私は子供を産むって決めたの。 (それはあなたのお説教のせいじゃなくて自分の意思でよ。だから、あなたのお説教は要らないの!) なるほど、自由の国、アメリカの歌だ。 (あれ!歌だ、っていうところの漢字変換が、最初、宇多田ってでてきた。アメリカの宇多田・・・ なかなか、深いなあ。これから、我がPCを、ヒカルと呼ぶことにしよう。) # by akubiagain | 2011-10-17 06:56
グルーポンを使う人も増えているはずだ。だが、お薦めしない。 たとえば、あなたがグルーポンで、あるお店の定価1万円が5000円!とかいうコース料理を購入したとしよう。 普通、有効期限が数カ月設定されている。だから、今日明日、というわけでもないけど、お得だし、お友達とそのうちいこっかな~、みたいな軽い気持ちで2枚(1万円分)買ったとする。 ところが! 2か月たって、そのお店に連絡すると、「先月末で都合により閉店しました!」みたいな返事がきた、としよう。 さてどうする?!まだクーポンの有効期限内だ。だから、当然、未使用分クーポンはそもそも使えなくなったのだから、お金返して~~!ということになるだろう。 ところが! グルーポンの「利用規約」(という名のほぼ一方的な契約書)とやらを読んでみると・・・ グルーポン側は一切法的な賠償責任とか返金する責任とかを負わなくていいような言い訳がいろいろできるように書いてあり、購入者(消費者)側には、露骨に不利な内容なのだ。 その利用規約の言わんとすることを要約すると、 まず会員になる=利用規約に全面的に同意する、というのが求められる(第1条)。 しかも、「事前又は事後の通知なしに本規約を改定できるものとし、本規約の改定後は、改定後の本規約を適用するものとします。また、会員が本規約の改定後に本サービスを利用した場合、改定後の本規約に同意したものとみなします。」(第1条3項)というのだから、利用者は、いつでもつねにグル―ポン側のいいなりになれ、と言われているようなものだ。 加えて、クーポン代金を払わないとクーポンを発行してもらえず、クーポンがないと、宣伝されているサービスは受けられない(第2条・第5条)。 ところが、「当社は、加盟店サービスについて何らの保証も行わないものとし、加盟店サービスに関する問い合わせは会員が参加加盟店に対して直接行い、当社はこれに関して一切責任を負わないものとします。万一会員と参加加盟店との間でトラブルが生じた場合には、当社に一切の責任はなく、会員と参加加盟店との間で解決していただくことになります。」(第2条4項)という。 要するに、グルーポン社は、まずは「おれの言いなりになれ。」「金を出せ。」「そしたらクーポン売ってやる。」「でもクーポン売った後のトラブルは、関知しない。店と利用者のトラブルは全部、利用者が店とやれ。」 ということだ。グル―ポンは金だけとって後は一切しらないよ、という規定なのだ。 その証拠に、「第5条(クーポンについて)」「第9条(会員の責任について)」そして「第2条(サービスについて)」を併せ読むと、利用者を馬鹿にしきった次のような内容となる。 「会員よりクーポン購入の申込があり、当社より会員に対して申込受付の通知をした時点で、会員は自らの申込を変更又は撤回することができないものとします。」(5条4項)、「取引が成立した場合、会員には当社の定める方法に従い、当社に対してクーポンの代金全額を支払う義務が発生するものとします。」(5条5項) その一方で「会員は、クーポンを換金したり、払い戻したりすることはできません。」(5条7項) たとえ、お店がクーポン有効期間内に突如閉店しても、「会員は自己の責任において本サービスを利用するものとします。」(9条1項)から、「当社は、加盟店サービスについて何らの保証も行わないものとし、加盟店サービスに関する問い合わせは会員が参加加盟店に対して直接行い、当社はこれに関して一切責任を負わないものとします。万一会員と参加加盟店との間でトラブルが生じた場合には、当社に一切の責任はなく、会員と参加加盟店との間で解決していただくことになります。」(2条4項)ということになる。 こんなにまで、露骨にグル―ポンだけに有利な内容の「利用規約」とやらが、よくも世間にまかり通っているものだ。利用者から一方的に金を巻き上げるだけで、自分は何もしなくてよく、消費者に不利が生じても一切返金に応じないというのだから。(この利用規約を書いた弁護士は、さぞかし、ウヒヒヒ、と高笑いしているだろう。) 何が特にアンフェアなのか。 1)そもそも、グルーポン利用者は、クーポンの購入の段階では、お店と直接に契約した関係にないから、クーポン利用者にお店と交渉して解決しろというのがアンフェアである。 (はたしてクーポンの購入が、利用者とお店との間で、契約の申込と承諾になるのだろうか?法科大学院生諸君、discuss!ちなみに、利用者がお店に予約の電話やメールをして、グルーポンを使う旨やグルーポンの券番号を伝達した段階で初めて、お店側は、特定の利用者がそのお店のサービスを受ける意思を表示したと分かるのである。グルーポン会社の側から、発券段階で券が何枚発行されたという情報は伝わっているようだが、券発行の段階で、個々の券番号に対応する特定の利用者名まではお店に伝わっていないようだ。) 2)また、グルーポンの利用規約には、利用者側の利益がまったく書かれていないので、内容的に、双方の利益を取引したフェアな合意とはいいがたい。 とくにグルーポン側がクーポン利用者(会員)のために、お店に対して、あるいはお店に関して、する行動について書かれていないのがファンフェアさを醸し出している。 たとえば ・グルーポンは会員(クーポン利用者)のために、お店にサービスを提供するように働きかける義務とか、(それをグルーポンとお店の間の「契約」で確保するか、その他のやり方でするかは、いろいろあるが、少なくともお店のサービス提供を会員のために継続するように、働きかける努力義務は書くべきだ。) ・お店のサービス提供が安定しないときは、そのお店についてのグルーポンの発行そのものを取りやめるとか、さらには、お店側にサービス提供について信義に反するような行動があったときは、券未使用の利用者への返金に応じる義務とか ・お店のサービスが間もなく終了されるとの注意喚起をグルーポンの会員にして、クーポンをさっさと使うように警告する義務とか、 そういう義務は負わなければ、利用者との関係でフェアとはいえないのではないか? 結論1 我々は、公正取引委員会に、不特定多数の消費者との契約を行って商売をする企業や人々の、こういった一方的契約条項を無効とする権限を与えるべきだ。(それとも、そういう権限がすでにあるなら、公正取引委員会はちゃんとそれを行使してもらいたい。) なぜ公正取引委員会かといえば、グル―ポンは、クーポン購入者との関係で、一方的にその条件での取引に応じるしかない状況を作り出しており、きわめて優越的地位にあり、その地位を濫用して一方的に不利な契約内容を購入者に押し付けているからだ。しかも、購入者となるであろう庶民のほとんどは、たった数千円や数万円の取引について、弁護士をたてて何十万・何百万もかかる訴訟を起こしはしないからだ。 と言えば、きっと、反論も出るだろう。<グル―ポンに契約するかどうかは個人の自由であるから、嫌なら、そういう会社と契約しなければいいだけで、優越的地位でもなんでもない、普通の地位だ。たんに一種のずる賢い会社にすぎず、市場の構造からして「優越的」とはいえないんだ、云々。> まあ、それは「理屈」だが、「理(ことわり)」=正義がないから、たんなる「屈」だ。 (世の中には、そういう「屈」ばかりこねるのが多すぎる。) 反論もできるが、長くなるので、さしあたり、次の結論2で妥協しよう。 結論2 我々は、もっと賢くなるべきだ。ついでに、消費者NPOももっと賢くなり、マスコミに訴えて、消費者庁にも訴えて、消費者に露骨に不利な契約で利益を得ようとする企業や人に、批判の声をあげるべきだ。 # by akubiagain | 2011-10-07 20:59
全行程1600キロの巡礼を、8月20日、ついに終えた。フランス中部のルプイから、区間区間に分けて、4年がかりで、順次歩いていく、分割払い方式のサンチアゴ・デ・コンポステラ巡礼だったが、ようやくこの夏に終えることができた。 出来たマメあまた、血豆になって剥げた足の爪も数枚にのぼる。 荷物で足が広がるのを計算に入れず、結果的に靴が小さくなって足の指が詰まり、一歩一歩が拷問のような区間(パンプローナからブルゴスまで)もあったが、それも、もう思い出の彼方だ。(あのいまいましい靴は、ビルバオでゴミ箱に捨てた。) 終わりよければすべてよし。 途中で出会った、スペイン人、ドイツ人、フランス人、イタリア人、スウェーデン人や韓国人の、巡礼仲間が次々と終点のサンチアゴ・デ・コンポステラの大聖堂前の大広場に到着して、お互いに完歩を祝福しあう。歌をうたうグループもいる。へなへなと座り込み、青い空のもと、堂々とそびえる大伽藍をつくづくみあげて、頭はまっしろ・・・でも、とにかく満足といった面持ちの大学生グループもいる。オフロード自転車を土埃だらけにしてたどり着く、サイクリストたちも多い。 みんなそれぞれの思いで、この巡礼をついに終えたのだ。 おめでとう、みんな。そして、ねばった自分にも乾杯! # by akubiagain | 2011-08-22 03:51
新潟の阿賀野川にかかる橋を列車が徐行して渡ったとき、その川幅全部を埋め尽くし、どろどろと行く濁流をぼくはみていた。茶褐色のうねる中に白い泡がたち、空き缶や流木やプラスチックがときおり塊になって流れてくる。日頃は河原の野球場も、いまはネットごと水没し、川中島の木々も流れの中で救助をまつかのようだ。橋げたの8割くらいまで水は迫り、そこを特急は徐行した。
鶴岡につくと晴れ間も出て、駅前で借りた自転車をこいで、川端の道や城跡の緑を楽しむ。閑散とした土曜日の午後。駅前の歩道のピポ・ピポという横断合図音が、まばらな人影に間の抜けた午後を案内している。道すがらの神社では、演歌を大音量のBGMにして夏祭りのテントを張る準備が進んでいた。 そう、久しぶりにまた庄内平野にやってきた。遠く見えるはずの月山はいまは黒雲に隠れ、対する鳥海山も霧か雲かにまぎれている。だが平野は、差し込む光に緑一面に輝き、稲穂の波もさざめいている。一路、櫛引へと向かった。 そこは黒川能の里。もう何年も前に、2月の王祇祭(おうぎさい)をみた。下座の当屋で徹夜で観賞し、翌朝、そのまま春日神社に移ってそこでフィナーレを迎えた。一睡もしないで見ていると、そこにいる村のおじいさんたちが、夢かうつつか、舞いを見ながら酒を飲む、太鼓や笛もかさなって、いにしえの神々がまるでそこにいるかのように見えた。室町のころから受け継がれてきたという古式の、黒川能。村の人々が、四季のけじめのために、また村の団結のために、守り通してきた民間能だ。 その黒川の人たちの夏の能「水焔の能」を今回は見た。これは伝統の日程の他に、新しく追加された夏の能会で、今年で28回目を迎えた。 場所は、櫛引町の運動公園の一角。赤川のそばだ。 そこに浅い掘をつくり、その上に能舞台を設け、夕闇前から太鼓や能や狂言をはじめ、夕闇せまる7時過ぎから、堀の中にしつらえられた、かがり火に火がともされ、その焔と能役者が水面に映るころ、クライマックスとなる。見物席は公園の芝生。大きく区画があって、一般席・団体席に分かれている程度で、あとは、お尻にしくプラスチック素材の座蒲団状の段ボールみたいなのを借りて、三々五々、めいめいが思うままに着席する。広く使えば、寝そべっても見られる。 見上げれば、夕日が雲にさし、茜色に染める。 今宵の曲は、「一角仙人」。 龍神2名と仙人がチャンバラをする。 のんびりしたお祭りで、会場の入り口で買った、地元のコップ酒にいつしか酔い、見ていたのか、いなかったのか・・・黒川はそんなところである。 ------------------ (今年の4月、NHKハイビジョンで、「三代友達(さんだい・ともだち)」というドキュメンタリーをやっていたそうだ。) # by akubiagain | 2011-08-01 07:36
![]() 山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。 何と、この文章の下線部の意味がとれない人が多いという。 人に情をかけて人のためにばかりやっていると、人に翻弄され巻き込まれ、自分のことが何もできなくなる、という意味だ。 「棹さす」・「流される」の縁語から、川舟を棹一本で突いて掘割を進めるのイメージが出てこないと、文意はまったくとれないだろう。現代でも、九州の柳川や関東では潮来(いたこ)で、「どんこ舟」を棹で操って掘割(=水路・運河)めぐりをする。 で、その「流される」のくだりにミソがある。 「情に」流されると言う、決まり文句だけの意味ではない。棹させば流される、この部分にも文字通りの意味がある。 はあ?と君は言うだろう。まあ、聞きたまえ。 6月のイギリスの大学町で晴れた日にやることはといえば、punting。日本のどんこ舟漕ぎと全く同じだ。 イギリスの川は流れが緩い。その静かな水面を滑るように、punt boat(どんこ舟)を棹一本使い、浅い川底を突いて前に進める。方向も棹を流れに差して、尾びれのように右に左に操ると舟もゆっくり方向を変える。ボートの最後尾に立ち、棹を操る。モーターボートのエンジンの位置だ。 オックスフォードであれば、モードリン橋から、そろりそろりと橋をくぐり、植物園の脇のクネクネまがる水路をテムズ川方向に下り、St. Hilda's Collegeの方へと川を上り、また橋をくぐって戻る。バラの花が川辺に咲き、クリケット場では試合がのんびり続く。 そのpuntingだが、これが実は鬼門がある。 川底が泥でぬかるんで、そこに棹をさすと抜けなくなる。そのときが大変だ。 素人は懸命に抜こうとする。が、その間も舟は慣性で進む。 で、棹を握りしめたままだとどうなるか? ドボン。 この身が流されるのである。情に棹させば、川底の泥にはまって抜けなくなり、この身が情の川に落ちる、ということだ。 # by akubiagain | 2011-07-04 04:30
BBCの面白いドキュメンタリーをみた。
ホモ・インターネティカス(Homo interneticus)(ネットの人) ![]() Part 1 | Part 2 | Part 3| Part 4| Part 5 (you tube) やっぱりネットは人々の知識構築のあり方を根本的に変えて行っているのだろうか。 キツネ型知識構築と、ハリネズミ型知識構築が対比されていた。 キツネは、あちこち駆け回っては、行き当たりばったりで知識を身につけていく。 ハリネズミは、一か所に中心地を設けて留まり、その周りの知識を次第に広げていく。 ネットの各ページを全部読みとおす人は少なく、関係する「リンク」の関係部分だけを、ピンポイントで利用するのが「ネットの人」。これはキツネ型知識構築。 これに対して、体系的に筋のある「本」は、ハリネズミ型知識構築。 両者は異質な知識構築のやり方だ。 「本」が普及したのは、グーテンベルクの活版印刷技術があったからだ。 あの技術が、口承での知識伝承が中心だった社会から、文字にして情報を伝える社会へと変化させた。 そして、文字での伝達を効果的にするために、レトリックや描写の技術が発達し、また一本の筋で展開する物語を使った情報伝達方法が求められた。ハリネズミ型知識構築の社会へと突入した。 ところが、今のネットは、キツネ型知識構築の社会へと向かわせている。 リンクがリンクへ飛んでいく、という前後の脈絡のない、知識の塊の飛び石を随意に飛び回って知識を利用する、(知識を身につけるのではない) そういう人を大量に生産している。 知識を internaliseする(自分の知識として整理して頭に叩き込む)ことが軽視され、分からなければ、ググればいい、みたいな人が量産される。 大筋、そういうことを言いたい番組だった。 見ていて、自分もそんな風に確かになってきてるような気がした。 ぼくらはまだ、ハリネズミ型を抜け切れておらず、本で知識をつけることや、本の形式で知識を伝えることが重要だと思っている、過渡期の世代なのだろう。だから、じわじわと進んでいる、キツネ型への社会変化が分からないのかもしれない。 番組では、このほか、ダンバー数 Dunbar numberというのも初めて知った。 これは、一人の人間や一個の動物の、認知能力の限界を示す数であって、とくに自分の周りに安定的な社会関係を築くために認識できる対象数の上限をいうらしい。 人間のダンバー数はせいぜい150程度だそうだ。つまり安定的に作れる友達は150人程度が限度、ということだ。200も300もfacebookの友達をもっていても、安定的に常時やりとりをする人は、その中のほんの一握りだそうで、それもダンバー数を裏付けるそうだ。 # by akubiagain | 2011-06-24 22:50
1日だけだったが、ボランティアに石巻に行った。被災から三か月、100日の慰霊祭が今週末ある。 石巻は、港湾部が津波にやられた。同じ市内でも、津波被害を免れたところも多い。平常と残骸。その落差がひどすぎる。港湾付近は今も見るも無残だ。 その一方で、仮設住宅の建設も進み、また道路は相当に回復し、水道も津波にやられた地域にも復旧してきている。自衛隊もボランティアも毎日黙々と復興にむけて力を尽くしている。地元の人もそれぞれに動いている。 自分など1日のボランティアでボランティアづらなどできないが、それでも現地レポートとして、伝えておきたいことがある。 1)だんだんボランティア活動が、細ってきている。被災地以外の人々の「のど元過ぎれば」的な関心散消によるものだ。それは責められない。むしろ、これからも、ボランティアが持続的に必要だということをアピールすることが大事なんだろう。宮城県災害ボランティアセンター バスパック 各大学の東日本津波・震災復興ボランティアへの取り組み 石巻の港湾部には、まだまだ、ドロかき、ガレキのかたづけなど残っている。流された漁具の回収を「カヌー」隊(という、カヌーボランティア)がやっていたが、そういうのも、まだ必要だ。「芸は身を助く」どころかまさに「芸は人を助く」ようなボランティアも必要だ。関心を持ち続けること、持ってもらい続けるためにPRすること。これが必要だと分かった。一例として、四万十塾のボランティアの活動記録がある。 2)膨大な量のガレキは、被災家庭の内外からごみ「仮置き場」へと移動したが、たんに産廃がA地からB地へと移動しただけにすぎない。問題の解決の主体が、個人から自治体に移っただけで、実は何も解決せず、日々、うずたかく積もっていくばかりだ。これは既存法も迅速処理を邪魔している。特別法で適用除外をつくるなどして、迅速に処理できるように、ぜひ国会議員も省庁の役人も奮闘してもらいたい。 # by akubiagain | 2011-06-18 11:15
その昔6月、札幌駅がまだボロだったころ、駅前でおじさんが夕張メロンを売っていた。
2個6000円だったと思う。 高すぎると思って、値引きを交渉したが、だめだった。初めてで、食べたかったので、悔しかったが言い値で買った。 たしかにおいしかった。 それから20年たった6月、また札幌を訪れた。 夕張メロンやいかに? なんと一玉1万円とか、安いのでも二玉1万円とかだった。 それでも破格値らしく、仰天するほどの値段がつくのも多いらしい。 ばかばかしい。しょせんメロンはメロンだ。 「腐っても鯛」というなら、「高くても瓜」と言ってやりたい。 スイカやトマトやキュウリと同族で、多産で品質のばらつきも、でにくい。 高すぎる証拠に売れ残ったのが大量に潰されて汁になって「ハイチュウ」やシャーベットに化けている。 農家の工夫や苦労はよく分かる。それは応分の報償を得るべきだ。 だが、いまの価格の夕張メロンは<欲張りメロン>である。 メロン市場は、参入障壁はさほど高くない。赤肉メロンで差異化しているとはいえ、それも夕張でしか作れないものでもない。他の土地で、夕張と同じかそれ以上においしいのも作れるだろう。競争による価格破壊が早く起きてほしい。 ・・・と、書いて、ふと思った。 まてよ、末端の小売業者が「夕張」のブランドで店頭メロンの値を吊り上げて売っているのかも、と。 そういう面もあるだろうが、店頭小売価格が高すぎればかならず廉価販売店が出る。 だから、いずれにせよ、夕張メロンは高すぎる。そしてメロンはperishable goods(傷みやすい/足の速い商品)だ。 熟しすぎると売り物にならない。それでも高くうるために、熟し始めたら店頭から外し、売れ残りとなり、潰される。 ならば、そういう売れ残ったけどまだ十分食べられる完熟メロンを、今こそ、東北の震災・津波被災者にプレゼントしてはどうか。そうすれば東北が復興して後も、依然として夕張メロンの値段が高くても、お金では買えない高貴な心意気のメロンとして、永遠に消費者に憶えられるだろう。そういうのこそ、だれも真似できない夕張唯一の魂ブランドになるんじゃないか。 # by akubiagain | 2011-06-12 09:40
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